蝉の音が騒がしい。聞き様によってはオーケストラみたいだ。
エアコンをつけずに窓を開け放しているため、熱気が容赦なく部屋の中へ入ってくる。
体が汗ばんでいるため、ベットもじめじめしてきた。暑い。
リビングからお母さんが呼んでいる。

気だるい気持ちで目を開けて時計を見た。8時半。夏休みをぐーたら過ごしている私には早い。
だがお母さんはもう出勤時間なんだろう。ホント、この暑い日にご苦労様です。
そんなことを思っていると、お母さんの声が再度聞こえてきた。



「ご飯用意してあるからね!!そういえば芽衣宛の手紙がきてるわよー!」


その瞬間、私は眠気というものを完全に忘れた。
飛び上がってベットから転げるように降りて、階段を駆け下りる。
あまりに急いでいるため、何度か転びそうになった。


リビングに行くと、お母さんが呆れたように笑ってから「いってきます」と出て行った。
私は「いってらっしゃい」と早口で言って、テーブルに飛びついた。


テーブルには葉書が一枚とハムエッグがのっかっていた。

葉書は外国からだった。見事な筆記体のため、ほとんどなんて書いてあるか読めない。
しかし、差出人が「Hiroki Kanda」と書いてあるのはかろうじて読めた。
メッセージのところには綺麗な字で「八月二十四日の夜九時より、演奏会をします。」と書いてあった。
すぐにカレンダーを見ると、24日はちょうど一週間後だった。

葉書を裏返すと、たぶんヨーロッパであろう教会の写真だった。








神田さんと私の出会いはちょうど一年前になる。
簡単にいえば、裏の家で神田さんがピアノを弾いているのを私がただ聴いているというだけだった。
けどそれで私は充分だった。
私は毎日神田さんの演奏を聴けることが幸せだった。

そんな神田さんが国際的に活躍するピアニストだということは夏休みの半ば頃に知ったことだ。
手紙でコンサートチケットを渡され、私は初めて神田さんのことを知った。それはとても寂しかった。
そして手紙に同封されていたもう一つチケットにより、8月31日ベランダで観客が私だけの特別コンサートが行われた。



私は朝食を食べてから、またベットに寝転んだ。
「・・・神田さんが帰ってくるんだぁ・・・。」
葉書を眺めながら、そう呟くと実感が湧いてくる気がした。



特別コンサートはいろんな意味で特別だった。
ピアニストの挨拶もなければ、曲紹介だってパンフレットだってない。
けれど、とても素晴らしかった。一年前のあの音色を私はまだ覚えている。
曲は夜にいつも弾いていた曲だった。
それは神田さんが作曲したのではないのかと私は密かに思っている。

悲しみを含んでいながら、中盤から徐々に優しい演奏になり、最後は喜びを歌うような綺麗なメロディー。


演奏が終わった後、神田さんはカーテンを開けた。
やっぱり逆光でよく顔を見えなかった。
私達は何も喋らなかった。正確には、何を喋っていいかわからなかったのだ。

世界が違うということがわかってしまった。
知らなかったときは、ただのブロック塀を挟んだ距離だったのに、その時見た神田さんはとても遠く見えた。

でも単に言葉が見つからなかったのかもしれない。
私はただ、拍手をすることしかできなかった。

神田さんが静かに言った。

「・・・・また、いつか。」

それは、私達に相応しい台詞だった。

「・・・・・・・はい。」

それからカーテンと窓が閉められた。私も静かに部屋に戻った。


それが、最後に会った日。


新学期が始まってからインターネットで調べてみると、神田さんは外国での活動を本格的にするらしい。もう、日本にいないのだ。
私は8月の出来事が全て夢のように感じた。
ただ夏の熱さで浮かされた、夢のようだった。








24日の夜。
私は以前そうだったように、8時半にもうベランダに出ていた。
まだ昼間の熱気が残っていて少し暑かった。空を見上げれば、少ない星が瞬いていた。
まるで、一年前みたいだった。


電気のつく小さな音が聞こえて、空から視線を外す。
部屋には明かりがついていた。窓が静かに開く。カーテンが揺れる。

「・・・・神田さん。」
ほとんど無意識で呼んだ。
神田さんだと思われる人影が、こちらに気がついた。

「・・・葉書、ありがとうございました。」
私がそう言うと、神田さんがベランダに出てきた。やはり暗くていまいち表情がわからない。


神田さんは何故、私に葉書を送ってくれたのだろうか。


『・・・・また、いつか。』


それは別れを意味すると思っていた。



「・・なんでですか?」
湿気を多く含んだ風が、私の髪をわずかに揺らす。
「・・・・迷惑だったか。」
一年前を思い出した。神田さんは一年前も、そう言っていた。
迷惑だなんて感じたこと、一年前も今も一度も感じたことがないのに。

私は首を横に振った。
「違います。むしろ嬉しいです。本当に。・・・・・ただ、どうしてかわからなくて。」

一ヶ月にも満たない時間を過ごしただけで、あとは何の接点もない。
神田さんがピアノを弾かなければ何も始まらない、そんな不安定な関係だ。
もう二度と、こうやってベランダで神田さんと向かい合うことなんてないと思っていた。



「・・・君は、僕にとって言葉では表せない存在だからかな。」
まるで自分自身にも問いかけているような口ぶりだった。

「そして君へとピアノを弾いた短い時間が、僕にとって大切だった。」


私は胸の奥がぎゅっと熱くなった。鼻がつんとする。


「神田さん・・・・・私もです。」


ただ、神田さんがあの夏のわずかな時間を大切に思っていてくれたこと。
そして、決して私だけが想っていたわけではないとわかったこと。
それが、本当に嬉しかった。



「9時だ。」
神田さんが部屋に引き返そうとする。
「神田さん!」
神田さんは頭だけこちらを向いた。




「・・・・私、来年も待ってます。」




神田さんと私は名前もない、不安定な関係だ。
けれど、私はこの関係を大切に思っている。
出来る限り、この関係が続けばいいと願っている。

それは、神田さんも同じだろうか。


神田さんが笑った気がした。

「待っていてください。」


優しい旋律が、夜と星と私を包み込んだ。


Sound Of August




(あの熱い夏のように)





























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